ウィーン (Vienna)
2017年1月1日時点での人口は186万7582人. ヨーロッパ有数の世界都市である.
第一次世界大戦までは、オーストリア=ハンガリー帝国の首都として、ドイツ帝国を除く中東欧の大部分に君臨し、さらに19世紀後半までは神聖ローマ帝国やドイツ連邦を通じて、形式上はドイツ民族全体の帝都でもあった. クラシック音楽が盛んで、過去にモーツァルトやベートーヴェン、シューベルトなど、多くの作曲家が活躍したことから「音楽の都」・「楽都」とも呼ばれる.
ローマ帝国の宿営地ウィンドボナ (Vindobona) をその起源とし、かつてヨーロッパの数か国を支配したハプスブルク家のオーストリア帝国の首都であった. マリア・テレジア女帝時代に栄えた市街は、フランツ・ヨーゼフ1世の治下で整備された. リングと呼ばれる環状道路は、ウィーンの近代化を実現するために、19世紀の後半にかつて旧市街を囲んでいた堀を埋め立てて造られたものである. シュテファン寺院(シュテファン大聖堂)や旧市街をふくむ歴史地区は、「ウィーン歴史地区」の名称で2001年にユネスコの世界遺産に登録された. ここには旧王宮であるホーフブルク宮殿(大統領官邸や博物館、国立図書館などとして使用)・ウィーン国立歌劇場・ブルク劇場・自然史博物館・美術史博物館、中央駅に近いベルヴェデーレ宮殿などが含まれる.
ウィーンは、そもそもの成り立ちが2つの道が交差するところに生まれた町であった. ドナウ川に沿ってヨーロッパを東西に横切る道と、バルト海とイタリアを結ぶ南北の道(琥珀街道)である. そこはゲルマン系、スラヴ系、マジャール系、ラテン系のそれぞれの居住域の接点にあたり、歴史的に見ても上述のように、紀元前5世紀以降ケルト人の居住する小村であったところにローマ帝国の北の拠点が建設されたのが起源であった. オスマン帝国の隆盛時には西ヨーロッパからみてイスラム勢力圏への入り口にもあたっており、伝統的にも多彩な民族性を集約する都市として栄えた.
その地理上の位置は、かつて共産圏に属した東ドイツのベルリンや東欧スラヴ民族の国家チェコのプラハよりも東であり、第二次世界大戦後の冷戦時代にあっても、国際政治上微妙な位置にあった.
また、都心から南南西方面に離れた場所には、かつてウィーン会議の舞台となった世界遺産のシェーンブルン宮殿がある. これは、レオポルト1世が狩猟用の別荘として建てたものを、マリア・テレジアが離宮として完成させたものである.
現在のウィーンは、国際機関本部の集積地ともなっており、日本政府も在ウィーン国際機関日本政府代表部を置いている. ウィーンに本部を置いている機関は次の通り.
* 国際連合ウィーン事務局 (UNOV)
* 国際原子力機関 (IAEA)