サナア (Sanaa)
サナア(Sana'a、صَنْعَاء; Ṣanʿāʾ)は、アラビア半島南西にあるイエメンの首都である. サナア県の中心ではあるが、行政上はサナア県に属さず、Amanat Al-Asemah「アマナット・アル・アシマ」(サナア市)を単独で構成している. サナアは標高約2,300mの高原にあり首都としては世界でも高地にある. 市内には粘土で作った煉瓦造りの建物があり、アラブ文化が色濃く残っている. イスラムの都市であり、市内にはムスリム大学やモスクが数多く見受けられる. 2008年に完成したサーレハ・モスクは4万人を収容する. サナアの人口は174万7,627人、都市圏人口は216万7,961人(2004年)で世界で最も増加率の高い首都の一つであり、2025年に438万人、2050年に1005万人、2075年に1,669万人、2100年の人口予測では2,721万人を数える世界25位の超巨大都市となる予測が出ている. サヌア、サヌアー、サナアーとも表記される. 現在はフーシ派に占拠されており、アデンに首都機能を移転している.
世界最古の町のひとつとされ、伝説ではノアの息子・セムによって町が創建されたとされる. エベルの息子のヨクタン(イエメンに入植したと言われる)の子孫・ウザルに因んで、サナアは古くは「アザル」と呼ばれた. 現在の地名は南アラビアの言葉で「堅牢な要塞」を意味する.
サバア王国の王都があったとされるマアリブ(今日のマアリブ県)と紅海を結ぶ十字路に位置し重要な町であり続けたヒムヤル王国(紀元前115年頃 - 525年)の最後の王・は都をサナアに移した. アクスム王国では総督府が置かれた.
イスラム教がこの地に入りカリフ制国家の支配下に入ってもサナアは中心都市として揺ぎ無いものがあった. マムルークが1517年にイエメンに侵入するもマムルーク朝はオスマン帝国に滅ぼされると、サナアはその支配下に置かれた. 1538年から1635年の第一次支配下ではウィラーヤの中心となり、1872年から1918年のオスマン帝国の第二次支配下でもウィラーヤの都であった.
1918年にイエメン王国が成立すると首都となり、1962年にイマームが放逐されイエメン・アラブ共和国が成立されるとその首都となった. 南北イエメンが統一された1990年からは現在のイエメン共和国の首都である. ところが2014年8月から反政府運動が起こり、9月にはフーシがサナアを制圧し、アブド・ラッボ・マンスール・ハーディー大統領を軟禁した.
世界最古の町のひとつとされ、伝説ではノアの息子・セムによって町が創建されたとされる. エベルの息子のヨクタン(イエメンに入植したと言われる)の子孫・ウザルに因んで、サナアは古くは「アザル」と呼ばれた. 現在の地名は南アラビアの言葉で「堅牢な要塞」を意味する.
サバア王国の王都があったとされるマアリブ(今日のマアリブ県)と紅海を結ぶ十字路に位置し重要な町であり続けたヒムヤル王国(紀元前115年頃 - 525年)の最後の王・は都をサナアに移した. アクスム王国では総督府が置かれた.
イスラム教がこの地に入りカリフ制国家の支配下に入ってもサナアは中心都市として揺ぎ無いものがあった. マムルークが1517年にイエメンに侵入するもマムルーク朝はオスマン帝国に滅ぼされると、サナアはその支配下に置かれた. 1538年から1635年の第一次支配下ではウィラーヤの中心となり、1872年から1918年のオスマン帝国の第二次支配下でもウィラーヤの都であった.
1918年にイエメン王国が成立すると首都となり、1962年にイマームが放逐されイエメン・アラブ共和国が成立されるとその首都となった. 南北イエメンが統一された1990年からは現在のイエメン共和国の首都である. ところが2014年8月から反政府運動が起こり、9月にはフーシがサナアを制圧し、アブド・ラッボ・マンスール・ハーディー大統領を軟禁した.
地図 - サナア (Sanaa)
国 - イエメン
イエメンの国旗 |
正式名称は、الجمهورية اليمنية(ラテン文字転写は、). アラビア語略称はاليمن(al-Yaman, アル=ヤマン). 公式の英語表記は、Republic of Yemen. 通称Yemen. 国民・形容詞ともYemeni.