マロヤロスラヴェツ (Maloyaroslavets)
マロヤロスラヴェツは、14世紀末から15世紀初頭にかけての時期に、モスクワ大公イヴァン1世(イヴァン・カリター)の孫であるセルプホフ公ウラジーミル(セルプホフのウラジーミル)が建設した町であり、ウラジーミルの息子ヤロスラフにちなんでヤロスラヴェツと名付けられた. 町びらきの年は、今日では1402年とされている. 1485年、この地方はモスクワ大公国に併合され、ヤロスラヴェツはヤロスラヴリと区別するために、「小さな」という意味の接頭辞を付けてマールイ・ヤロスラヴェツと呼ばれるようになった.
1776年、マールイ・ヤロスラヴェツは市の地位を得た. 地名は後にマロヤロスラヴェツへと変わっている.
ナポレオンのロシア侵入(祖国戦争)では、この街の近くで1812年10月24日(ユリウス暦の10月12日)にマロヤロスラヴェツの戦いが起こった. この戦いでは、ミハイル・クトゥーゾフ率いるロシア軍が、モスクワから退却するフランス帝国の大陸軍に対して追撃を行った. フランス側がロシア側に大きな被害を与え、かろうじて戦術的な勝利を収めた. しかし、大陸軍はこの戦いによりロシア軍が焦土化したスモレンスク経由の道を通らざるを得なくなり、激しく消耗する結果に終わった. この戦いを記念する大聖堂が1843年にニコラエフ=チョルノーストロフスキー修道院に建設された.
第二次世界大戦の独ソ戦(大祖国戦争)では、モスクワの戦いの際に戦場となっている. 1941年10月18日にドイツ国防軍により占領され陸軍司令部(AOK 4)が置かれたが、モスクワ付近からカルーガ付近まで前線を押し返した赤軍により1942年1月2日に解放された.