ラバト (Rabat)
シェラ(شالة, Chellah)というネクロポリスがブー・レグレグ川の両岸に残っている. これらは紀元前3世紀のもので、この頃には既に定住が行われていた. ローマ帝国は紀元40年に現在のモロッコにあたるこの地域をマウレタニア・ティンギタナ属州として帝国内に組み込み、シェラをローマ人の定住地に変え、と呼ぶようになる. 250年まではローマの植民市の状態が続き、その後この地を放棄した.
1146年、ムワッヒド朝のアミール・アブドゥルムウミンは11世紀に造られたリバートをスペインへの攻撃拠点とするべく大規模な城塞に改築した. 1170年にはرباط الفتح(ribāṭ al-fatḫ, 「勝利の陣屋」)と名づけられ、ここから現在の市名が由来する. ヤアクーブ・マンスールは都をラバトに移し、城壁やウダーヤのカスバを建設した. マンスールは世界最大級のモスクの建設などにも着手したが、マンスールの死によって完成を見なかった. 世界最高のミナレットも完成せずハサン塔として現存している. その後ラバトは低迷期を迎える. ムワッヒド朝はイベリア半島の、次いでマグリブでの領地を次々に失い、13世紀には経済の中心もフェズに移った. 1515年、この地を通ったムーア人の探検家は「ラバトには100世帯しか残っていない」と記しているほどラバトは衰退した. 17世紀、スペインを追放されたモリスコたちが入植し、ラバトの復興の土台となった. 1627年、ラバトとサレは「」を発足させた. この国はコルセア(海賊)によって運営され、ラバトとサレは海賊行為の出撃拠点となった. 1666年、アラウィー朝(今日まで続くモロッコ王室)がモロッコを統一するが海賊国家の制圧には失敗し、ブー・レグレグ共和国は1818年まで存続した. またこの地の海賊も1829年にオーストリア船が海賊に攻撃された報復でオーストリア軍がラバトを砲撃して打撃を与えるまで健在だった. 1912年、フランスがモロッコに侵攻しフランス保護領モロッコとすると、総督のウベール・リヨテ将軍は政情不安なフェズからラバトに都を移すことを決め、スルターンのベンユースフ・ハッサーンは遷都した. 1913年、ウベール・リヨテはフランス人都市計画家のアンリ・プロストに命じ、ラバトの行政地区の都市設計を行わせた. これが現在のラバトの市街地である. モロッコが独立を成し遂げると1956年、スルターンのムハンマド・ベンユースフ(ムハンマド5世)は都をそのままラバトとする決定を行った.
第二次世界大戦後、アメリカがフランスの空軍基地址に駐留した. この「ラバト・サレ空軍基地」には米軍の戦略航空軍団が置かれた. 独立後は、1958年のレバノンでのイスラム教徒の内乱にアメリカ海兵隊が介入したこともあってムハンマド5世は米軍の撤収を要求、1960年代に米軍は撤収した.
地図 - ラバト (Rabat)
国 - モロッコ
モロッコの国旗 |
南に接する西サハラはスペインが放棄後、モロッコと現地住民による亡命政府であるサハラ・アラブ民主共和国が領有権を主張している. モロッコは西サハラの約7.5割を実効支配しているが、領有を承認しているのはアメリカ合衆国をはじめとした50か国程度にとどまり、国際的には広く認められていない(を参照). 実効支配下を含めた面積は約604,107 km2(うち 、西サハラ部分が190,100 km2)、人口は33,848,242人(2014年国勢調査 ).
通貨 / 言語
ISO | 通貨 | シンボル | 有効数字 |
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MAD | モロッコ・ディルハム (Moroccan dirham) | د Ù…. | 2 |