。1925年受託者法(Trustee Act 1925)の第61条は、裁判所に、公生かつ合理的に行動し、免責されるのが当然である受託者を、信託違反の責任から免除する権限を与えた 。この立法をなしたイギリス議会は、世界恐慌が投資信託を通し大衆化した歴史にある程度の責任がある。イギリス投資信託全体の資産構成に占める下位証券の割合は、1933年で36.2%、1935年で42.0%、1938年で53.5%に上昇していった 。
1939年のアドルフ・ヒトラー総統のナチ党率いるナチス・ドイツがポーランドに侵攻し、フランスとともに宣戦布告を行い、バトル・オブ・ブリテンをはじめヨーロッパ戦線では対独伊戦争、太平洋戦線では対日戦争を経験し、アメリカ合衆国の民主党フランクリン・ルーズベルト大統領と大西洋憲章を共同で提唱した保守党のウィンストン・チャーチル政権による挙国一致内閣の下に勝利を得た第二次世界大戦後、イギリス軍はドイツのハンブルクやハノーファーを占領し、旧西ドイツの形成の一役を担った。アメリカ合衆国は旧南ドイツ連邦とオーストリア西部を占領した。アメリカ合衆国の占領地域はオランダと歴史がつながっており、戦間期にまして欧州東西の資本が錯綜した。
イギリスは、1945年の冷戦開始以降にかけて政治経済その他多くの面でアメリカ合衆国に覇権を譲った。また、資本主義・自由主義陣営の西側諸国の一国としてソビエト連邦とは敵対しながら、政治面では労働党のクレメント・アトリー政権が「ゆりかごから墓場まで」をスローガンに福祉国家を作り上げた。経済面ではイングランド銀行がブレトンウッズ体制をめぐる駆け引きに競り負け、1960年代のポンド危機と1970年代のセカンダリー・バンキング危機に遭い、「英国病」とまで呼ばれる不景気に苦しんだ。産業面では戦前からゼネラル・エレクトリックに産業革命の威光を奪われていた。アトリー失脚後は、保守党へ政権交代となりチャーチルが首相に再任する。
第二次大戦中イギリスは帝国内で最大規模の人口を誇るインドに対して、ヨーロッパ、太平洋で複数の戦線を維持し、又城内平和を維持するため戦後インドの地位に対して大幅な譲歩をせざるを得なかった。イギリス政府は1947年にインド独立法を承認し、インドとパキスタンの独立を、翌1948年にはセイロン(スリランカ)の独立を承認した。又大戦中に日本の支配下にあったビルマ、マレーでもイギリス支配下に復することに混乱が見られ、1948年にビルマ(ミャンマー)の1957年にマレーシアの独立を承認した。
1960年代に入るとフランス領西アフリカの独立要求を期にアフリカ諸国の独立運動が活発化し、1960年にナイジェリアが、1962年にウガンダが、1963年にケニアが、1964年にマラウイとザンビアがイギリスから独立を宣言した。又1961年に南アフリカが、1966年にローデシアがアパルトヘイト維持のためイギリスからの独立を宣言した。
1956年にはエジプトがスエズ運河の国有化を宣言し、同地帯を占領したためイギリス、フランス、イスラエルとの間で戦闘が勃発した。これが第二次中東戦争(スエズ危機)である。英仏は国際世論の支持を得られなかったためスエズから撤退し、地中海と紅海を結ぶスエズ運河の利権を喪失した。またエジプトの行動に励まされて中東地域でも独立運動が刺激され、1971年にバーレーン、カタール、アラブ首長国連邦がイギリスから独立した。
残る最大のイギリス植民地は香港だけになったが、これも1984年にマーガレット・サッチャー首相と鄧小平中華人民共和国中央軍事委員会主席の間で行われた英中首脳会談で新界の租借期限が切れる1997年に割譲地も含めて一斉に中国に返還されることになった。香港を返還したことで、イギリスは主要な植民地のほぼ全てを喪失することになり、世界の7つの海を跨いだイギリス帝国は消滅していった。
1964年にはハロルド・ウィルソンが首相に就任し、アトリー以来13年ぶりに労働党が政権に復帰する。1969年にイングランド、ウェールズ、 スコットランド、1973年に北アイルランドで死刑制度が一部例外を除き廃止された。また、ウィルソン労働党政権下で、妊娠中絶の合法化、死刑制度の廃止及び同性愛の非刑罰化(ソドミー法の廃止)を含む社会的改革がなされ、通貨ポンドの平価切り下げや、日本の放送大学の模倣ともなった通信制公立大学であるオープン大学の設置などの政策が実施された。
1980年代に成立した保守党のマーガレット・サッチャー政権は、新自由主義による構造改革(ネオリベラリズム・サッチャリズムに基づく民営化・行政改革・規制緩和)を急進させて(小さな政府志向・自由主義国家論)、多くの失業者を出した。地方経済は不振を極め、ロンドンを中心に金融産業などが成長した。
1990年代、政権は保守党のジョン・メージャーから労働党のトニー・ブレアに交代し、イギリスは市場化一辺倒の政策を修正しつつかつての重厚な福祉国家にも逆戻りしない「第三の道」への路線に進むことになった。また、1998年人権法を制定し、死刑制度が完全に廃止された。この頃からイギリスは久しぶりの好況に沸き、「老大国」のイメージを払拭すべく「クール・ブリタニア」と呼ばれるイメージ戦略・文化政策に力が入れられるようになった。
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