サンスクリット

サンスクリット
サンスクリット( saṃskṛtam、 )は、古代インド・アーリア語に属する言語. インドなど南アジアおよび東南アジアにおいて用いられた古代語. 文学、哲学、学術、宗教などの分野で広く用いられた. ヒンドゥー教の礼拝用言語でもあり、大乗仏教でも多くの仏典がこの言語で記された. 現在もその権威は大きく、母語話者は少ないが、現代インドでも憲法の第8付則に定められた22の指定言語の1つである. この附則が制定された時に指定された15言語にサンスクリットはすでに入っており、インドの紙幣にもサンスクリットでの金額記載は含まれている.

サンスクリットは「正しく構成された(言語、雅語)」を意味し 、この単語それ自体でこの言語を意味するが、言語であることを示すべく日本ではサンスクリット語とも呼ばれる. ただし、この言語が「サンスクリット」と呼ばれるようになったのが確認できるのは5世紀から6世紀ごろのことである.

漢字表記の梵語(ぼんご)は、中国や日本や韓国やベトナムなど漢字文化圏でのサンスクリットの異称. 日本では近代以前から、般若心経など、サンスクリットの原文を漢字で翻訳したものなどを通して梵語という呼称が使われてきた. 梵語とは、サンスクリットの起源を造物神梵天(ブラフマー)とするインドの伝承を基にした言葉である.

サンスクリットはインド・ヨーロッパ語族のインド・イラン語派インド語群に属する古代語である.

リグ・ヴェーダ(最古部は紀元前1500年頃)をはじめとするヴェーダ文献に用いられていたヴェーダ語をその祖とする. ヴェーダ語の最古層は、インド・イラン語派イラン語群に属する古典語であるアヴェスター語のガーサーの言語(古アヴェスター語)と非常に近い.

ヴェーダ語は紀元前5世紀から紀元前4世紀にパーニニがその文法を規定し 、体系が固定された. その後、彼の学統に属するカーティヤーヤナおよびパタンジャリがこの理論の補遺及び修正を行い、最終的に整備された. この3人、とくにパタンジャリ以後の言語は古典サンスクリットと呼ばれる. 古典サンスクリット成立後も、5世紀のバルトリハリなどの優れた文法学者が輩出し、文法学の伝統は続いていった.

パーニニの記述からはサンスクリットが北インドの広い領域で使用されていたことがうかがえるが 、この時期にはすでにサンスクリットは文語化しており、インド各地の地方口語(プラークリットと呼ばれる)が用いられるようになっていた. 紀元前3世紀にマウリヤ朝のアショーカ王によって刻まれたインド現存最古の碑文であるアショーカ王碑文はサンスクリットでなくプラークリットで刻まれており、また上座部仏教(南伝仏教)の仏典もプラークリットに属するパーリ語で記されている のは、この言語交代が当時すでに起こっていたことを示している. しかしサンスクリットは典礼言語として定着しており、宗教(ヒンドゥー教・仏教など)・学術・文学等の分野で幅広く長い期間にわたって用いられた. こうしたサンスクリット文化の伝承者はおもにパンディットと呼ばれる学者であり、彼らは膨大な文章の暗記を行い、それを読誦し、口伝によって後世へと伝えていった.

グプタ朝ではサンスクリットを公用語とし 、カーリダーサなどに代表されるサンスクリット文学が花開いた. この時期には碑文は完全にプラークリットからサンスクリットで刻まれるように変化しており 、また7世紀ごろには外交用語として使用されるようになっていた. 10世紀末のガズナ朝以降、デリー・スルターン朝やムガル帝国といった、北インドで交代を繰り返した中央アジア起源のインド王朝はペルシア語を公用語としたが、この時期にもサンスクリットの学術的・文化的地位は揺らぐことはなかった.

13世紀以降のイスラム王朝支配の時代(アラビア語、ペルシア語の時代)から、大英帝国支配による英語の時代を経て、その地位は相当に低下したが、今でも知識階級において習得する人も多く、学問や宗教の場で生き続けている. 1972年にデリーで第1回国際サンスクリット会議が開かれたが、討論から喧嘩までサンスクリットで行われたという. また、従来はサンスクリットは男性が使うものであったが、現代では女性がサンスクリットを使うようになってきている.

インドで実施される国勢調査においては現代でもサンスクリットを母語として申告する人びとが少数ながら存在し、2001年にはインドで1万4135人が 、2011年にはインドで24,821人 、ネパールで1,669人 がサンスクリットを母語とすると回答しているが、日常語として使用されているかについては疑問が呈されている.