ウッタラディット県 (Changwat Uttaradit)
「ウッタラディット」は、ナーン川の一大貿易拠点だったことから、『北の港』や『北の荷卸し地』をタイ語で意味する名前がつけられた. スコータイ王朝時代は、複数の都市国家(ムアン)に分かれており、ムアン・ファンは現在のムアン・ウッタラディット地区、ムアン・トゥン・ヤンはラプレ、ムアン・タ・チュチョクはトロン地区に当たる. アユタヤ王朝時代は、ムアン・ピチャイがタイ王国における16の主要なムアンの一つとされていた. ナレースワン王時代は、ピチャイの統治者は反逆しサワンカロークに下った. この反乱は鎮圧され、両都市の住民はピサヌロークの南部に強制転居させられた. 1767年、ビルマによるアユタヤ王朝の凋落によって、ピチャイは侵略者と対峙する戦場と化した. ピチャイの統治者はビルマ軍を迎撃することに成功し、敵と血を血で洗う激しい戦闘による功績からプラヤー・ピチャイダープハック「折れた剣のピチャイ卿」と讃えられた. ラーマ3世の時代、ムアン・ピチャイは北シャムのナーンやプレーだけでなく、ラオスのルアンパバーンやビエンチャンさえも統治下に置いていた. ナーン川の港は既に浅くなってしまっていた. 本都市が重要な貿易拠点として成長を遂げたことから、1887年この都市はピチャイに従属した. 1899年には中心部が新しい場所へ移転し、1915年にウッタラディットの名に改められた.