セヴリエヴォ (Obshtina Sevlievo)
この地域に人が居住していた最古の痕跡は、新石器時代(およそ紀元前8世紀)にさかのぼる. 複数のトラキア人の墳墓が現在も残されている. ホタリチ(Хоталич / Hotalich)要塞は中世の要塞としである. ここには1000人以上が住み、重要な防衛拠点として機能していた. ホタリチ要塞は何世紀にも渡ってセルヴィ(Серви / Servi、あるいはСелви / Selvi)と呼ばれる集落とともにあった.
19世紀中ごろ、工芸の発展によって工芸職人の社会に多くの富が集まるようになった. オスマン帝国やヨーロッパ諸国、ロシアへの商用旅行によって、知識は強化された. 1834年、預言者聖エリヤ聖堂が修復され、1836年には中世のバトシェヴォ修道院(батошево / Batoshevo)修道院が修復された. 1850年代の半ばには、ブルガリア民族復興時代の名高い匠であるコリュ・フィチェト(Колю Фичето、Kolyu Ficheto)によって、ロシツァ川(Росица / Rositsa)に石橋がかけられた. 1844年には、富と名声ある職人で商人であるハッジ・ストヤン・ニコロフ(хаджи Стоян Николов / hadzhi Stoyan Nikolov)は、自身の財産を大きな学校を作るために投じた.
1870年、「自由の使徒」と呼ばれたブルガリアの革命家ヴァシル・レフスキの直接の指導によって革命委員会が組織される. 委員会はセヴリエヴォの住民を集め、1876年の4月蜂起を準備した. この地域のブルガリア人たちは、蜂起において重要な役割を果たした.
オスマン帝国による支配は1877年7月2日に終わった. 主要な文化施設として公民館施設があり、その歴史は120年を超える. マラ・ベルチェヴァ(Мара Белчева / Mara Belcheva)文化の家は新しく文化的催しの拠点となった.