興城市 (Xingcheng)
明代になると遼東都指揮使司の下に寧遠衛が設置され、山海関の外郭で辺境守備の要衝とされた. 明末には薊遼総督であった袁崇煥が城壁を築いて紅夷砲(ポルトガル製の大砲)を据え付け後金に備えた. 1626年(天啓6年)正月、明軍は攻め寄せてきたヌルハチの軍を破り(寧遠の戦い)、ヌルハチ自身はこの戦いで紅夷砲による負傷が原因でまもなく死亡している.
清代には寧遠州と改称、中華民国が成立すると1913年(民国2年)に寧遠県とされたが、重複県名が存在したことから翌1914年1月に興城県に改称された. 1986年12月に興城市に昇格し現在に至る.