アル=アズハル大学 (Al-Azhar University)
イスラム教スンナ派の最高教育機関として有名であり、現存する世界最古の教育機関の1つである. アル=アズハル学院とも呼称される.
970年に建立されたに付属するマドラサとして、ファーティマ朝支配下のカイロに設立された.
アル=アズハル・モスクは当初は街の名にちなんでアル=カーヒラ・モスク(カイロ・モスクの意)と呼ばれていたが、後に「アズハル」という名称で知られるようになっていった. アズハル(Azhar)の名の由来には諸説あるが、ファーティマ朝においてカリフの直系の先祖とされた預言者ムハンマドの娘ファーティマの称号「アッ=ザフラー」(、「光輝く者」の意)の男性形で「光り輝ける」という意味を持つという説が有力・有名である.
アズハルで学術研究が始まったのは975年のラマダン月である. 978年に教育活動を開始したとされる. イスラーム神学(カラーム)、イスラーム哲学、イスラーム法(シャリーア)、イスラム法学および法解釈(フィクフ)、アラビア語(古典アラビア語)文法学と言語学(フスハー)、哲学、天文学、論理学の部門を擁し、ファーティマ朝の宗旨を反映してシーア派の学府として発足した. 同時代の他王朝のカリフがギリシア哲学を「背教的でヘレニズム的である」として非難し排除していた中、ファーティマ朝のカリフはギリシア哲学を積極的に奨励し、内外から優れた著作や学者をカイロに集めた. このためアズハルはイスラーム世界における哲学研究の中心地となり、プラトン、アリストテレスなどの著作の研究が行われ、哲学関連の蔵書は膨大な数を誇るようになった.
創立当時のファーティマ朝下では、カリフが直接管理するか、カリフに代わる役人が統括して、大臣または国家の要人が直接教授の任にあたった. 現在の大学院にあたるコースも開講しており、世界で最初の成熟した大学であったと評価されている. また創立当初からの伝統では、法学者を志す者に対して誰にでもいつでも門戸を開放するという趣旨から、入学随時・出欠席随意・修業年限なし、という3原則を守っていた. 学生は出身地・教派などでそれぞれの寮に分けられ、質素な暮らしで研究に打ち込んだとされる.
アズハルを現在のようなスンナ派の学府へと教旨替えさせた のはサラーフッディーンである. 12世紀後半にファーティマ朝を廃してエジプトにスンナ派王朝のアイユーブ朝を興した際、シーア派の学府を不要と断じ、アズハルの有していた何万冊もの蔵書を売却もしくは破棄処分させたと言われている.
アイユーブ朝の後を嗣いだマムルーク朝下では、マムルーク騎士団のアミールの一人がアズハルを統括していた.
1517年、マムルーク朝を破ってカイロを手中にしたオスマン帝国のセリム1世は、マムルーク朝時代に栄えた学校や学林モスクを次々と閉鎖したが、アズハルについては存続させ、自らもエジプト滞在中にはアル=アズハル・モスクの金曜礼拝に加わり、莫大な喜捨を行った. 17世紀後半にはアズハル大学の総長職が確立した.
イスラーム世界の各地から留学生を受け入れ 、19世紀に英仏の影響を受けて自然科学など近代学問の要素を吸収し 、19世紀末にスエズ運河が開通すると、列強の植民地下にあった東南アジア各地からの留学もさらに増え、反植民地運動を志すグループを生んだ.
現在世界各地の大学で見られる、卒業式に黒いガウン(アカデミックドレス)を着用する習慣は、アル=アズハル大学を卒業するイスラム学者たちのゆったりとしたローブが起源であるといわれている. 卒業者(アズハリー)にはイスラーム指導者 や裁判官、アズハル大学をはじめとする各大学の教授やアラビア語教師になる者を多数輩出した. 卒業生には汎アラブ主義運動の指導者もいた.
970年に建立されたに付属するマドラサとして、ファーティマ朝支配下のカイロに設立された.
アル=アズハル・モスクは当初は街の名にちなんでアル=カーヒラ・モスク(カイロ・モスクの意)と呼ばれていたが、後に「アズハル」という名称で知られるようになっていった. アズハル(Azhar)の名の由来には諸説あるが、ファーティマ朝においてカリフの直系の先祖とされた預言者ムハンマドの娘ファーティマの称号「アッ=ザフラー」(、「光輝く者」の意)の男性形で「光り輝ける」という意味を持つという説が有力・有名である.
アズハルで学術研究が始まったのは975年のラマダン月である. 978年に教育活動を開始したとされる. イスラーム神学(カラーム)、イスラーム哲学、イスラーム法(シャリーア)、イスラム法学および法解釈(フィクフ)、アラビア語(古典アラビア語)文法学と言語学(フスハー)、哲学、天文学、論理学の部門を擁し、ファーティマ朝の宗旨を反映してシーア派の学府として発足した. 同時代の他王朝のカリフがギリシア哲学を「背教的でヘレニズム的である」として非難し排除していた中、ファーティマ朝のカリフはギリシア哲学を積極的に奨励し、内外から優れた著作や学者をカイロに集めた. このためアズハルはイスラーム世界における哲学研究の中心地となり、プラトン、アリストテレスなどの著作の研究が行われ、哲学関連の蔵書は膨大な数を誇るようになった.
創立当時のファーティマ朝下では、カリフが直接管理するか、カリフに代わる役人が統括して、大臣または国家の要人が直接教授の任にあたった. 現在の大学院にあたるコースも開講しており、世界で最初の成熟した大学であったと評価されている. また創立当初からの伝統では、法学者を志す者に対して誰にでもいつでも門戸を開放するという趣旨から、入学随時・出欠席随意・修業年限なし、という3原則を守っていた. 学生は出身地・教派などでそれぞれの寮に分けられ、質素な暮らしで研究に打ち込んだとされる.
アズハルを現在のようなスンナ派の学府へと教旨替えさせた のはサラーフッディーンである. 12世紀後半にファーティマ朝を廃してエジプトにスンナ派王朝のアイユーブ朝を興した際、シーア派の学府を不要と断じ、アズハルの有していた何万冊もの蔵書を売却もしくは破棄処分させたと言われている.
アイユーブ朝の後を嗣いだマムルーク朝下では、マムルーク騎士団のアミールの一人がアズハルを統括していた.
1517年、マムルーク朝を破ってカイロを手中にしたオスマン帝国のセリム1世は、マムルーク朝時代に栄えた学校や学林モスクを次々と閉鎖したが、アズハルについては存続させ、自らもエジプト滞在中にはアル=アズハル・モスクの金曜礼拝に加わり、莫大な喜捨を行った. 17世紀後半にはアズハル大学の総長職が確立した.
イスラーム世界の各地から留学生を受け入れ 、19世紀に英仏の影響を受けて自然科学など近代学問の要素を吸収し 、19世紀末にスエズ運河が開通すると、列強の植民地下にあった東南アジア各地からの留学もさらに増え、反植民地運動を志すグループを生んだ.
現在世界各地の大学で見られる、卒業式に黒いガウン(アカデミックドレス)を着用する習慣は、アル=アズハル大学を卒業するイスラム学者たちのゆったりとしたローブが起源であるといわれている. 卒業者(アズハリー)にはイスラーム指導者 や裁判官、アズハル大学をはじめとする各大学の教授やアラビア語教師になる者を多数輩出した. 卒業生には汎アラブ主義運動の指導者もいた.
地図 - アル=アズハル大学 (Al-Azhar University)
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国 - アラブ連合共和国
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